サイトの冒頭でも書いているが、ここではさらに、

「本当にこの世がゲームだとしたら・・」

このことを考察してみたいと思う!



この世がゲームだと思う理由

そもそも、私が、もしかしたら、この世ってゲームじゃないの?

もしかして映画マトリックスみたいな世界じゃないの?

 

と思い始めてから、昔から遊んでいたこの「シムズ」というゲームに違う関心が芽生えはじめていた。

 

シムズはゲームの中で人生を謳歌できるゲームである。

キャラ設定はプレイヤーである自分が好きなように作ってスタートすることができる

性別、肌の色、体系、性格・・などなど、何もかもプレイヤーが決めてスタートすることができるのだ。

私はシムズシリーズを発売当初から長年遊んでいるけれども、当たり前のように自分の好き勝手にシムを操作して遊んできた。

 

 

自分の好き勝手とは・・

シムの願望は無視してでも、ギターを趣味にさせたり、釣りを趣味にさせたり、画家にさせたり、それどころか、シムの気持ちを無視して、ある特定の人物と結婚させたり・・

とにかくプレイヤーである自分が操作ができることをいいことに、ゲームのキャラにすぎないシムの人生を好き勝手に動かしてきた・・

 

しかし・・

こうして今回、シムを自由に泳がせてみようかな・・と思ったひとつのきっかけがおこる・・

 

 

それは、以前のプレイでのこと・・

 

ずっと遊んできた女性シムがいた

ある日、高齢になり、そのシムが寿命が尽きて亡くなってしまった

そして、その女性シムには子供の頃からの親友がいた

もちろん、その人もすでにおばあちゃんである。

女性シムが亡くなったとき、なぜかその親友のおばあちゃんはお葬式にきてくれなかった

私は上から眺めていて悲しかった

「なぜだろう、あんなに仲が良かったのに・・しょせんゲームの世界かぁ~」

とがっかりした。

しかし・・

次の日、その親友のおばあちゃんは、ひとりこっそりやってきて庭にあるお墓にたたずんだのである

それも長時間、お墓の前でジッとしていた

これにはびっくりした・・

そして、怖かった・・

 

え?これって確か、ただのゲームだよね?

もちろん、ゲームオプションの自律レベルのメーターはいつもマックスに設定してある

自律レベルが高いと、プレイヤーが操作しない限り、シムは自分の自由意志で動くようになるのだ。

 

それにしても、本当にこの出来事は長年シムズをプレイしてきた私にとって、ずっと記憶に残る出来事だった。

本当の自分はどこにいる?

ちょっとスピリチュアル系の話になってしまうが、人間というのは以下の3つで構成されているらしい

1.肉体

2.感情

3.思考

 

身体の部位でいうと・・

肉体・・お腹で感じる

感情・・胸で感じる

思考・・頭で感じる

 

このように3つで構成されているらしい

 

そして、私たちは当たり前のようにこの3つとも、「自分自身だ」と、思っている。

 

しかし、実際は、この3つは本当の自分ではなく、これらを越えた所に本来の自分がいるらしいのだ。

 

もしも、これが本当ならば、ゲームの中のシムがただのキャラであり、リアルなプレイヤーである私が本物であるように・・

そう!

つまり、冒頭でも説明したように・・

 

リアルな私も、実はただのゲームのキャラで、本来の私というプレイヤーが別の所で操作しているかもしれない!のだ・・

 

「本来の私」を経験することで見えてくること

シムズをプレイすることで、リアルな私は、「本来の私」の気持ちを感じることができる。

 

具体的にどういうことかというど・・

このシムズというゲーム世界は、じつに色んなことができるように仕込まれたオモチャ箱のような世界である

ゲームを楽しめるようにするためだから当たり前といえば当たり前なのだが・・。

 

たとえば、趣味でいうと、ギターや、絵画、読書、彫刻、ガーデニング、釣り・・などなど

これらの趣味は、趣味を越えると職業にできるというリアルさをもった設定になっている

さらに、そのまんまの職業の種類も、警察官や政治家、教育者が選べるほか、犯罪業も選べるのだ

これもリアリティがある。

 

しかし!

シムを操作せずに自由意志で動かしていると、シムは本当に狭い範囲内でしか行動しないことがわかる

基本はシムそれぞれの性格によって行動にかたよりがおこる

たとえば、音楽が好きなシムは当然のことながらギターが欲しい!と願望をだす。

絵画が好きなシムならば、キャンパスが欲しい!美術館に行きたい!という願望をだす。

 

だが、リアルな私たちと同じように、自分の興味があること以外の願望はなかなか出さない

音楽が好きならば、音楽関係の趣味ばかり・・という感じにかたよるのだ。

 

しかし、このゲームをプレイしている私は知っている

このゲームにはありとあらゆる可能性があり、願望さえ出せば、もっともっと楽しめるようになっているということを。




本当に楽しいのは自由意志を眺めること

だからこそ、このゲームで遊ぶほとんどの人が、シムの自由意志を無視して、自分が歩みたい人生を強制的にプレイさせていると思う。

 

実際、私もそうやってこのゲームを遊んできた・・

シムが願望を出してきても、操作している私が気にいったことでなければ実行させない

そして・・

シムが願望に出していなくても、ギターを弾かせたり、絵を描かせたり、ジムに行って運動をさせたりさせる

つまり、操作する私が眺めていて楽しい人生にしてきたのだ。

 

しかし、今回このサイトでは、ゲーム内にもともと住んでいるシムで、しかも、そのシムの願望を第一に優先してプレイするようにしてみた。

となると、当然、眺めているだけの私は退屈になる

最初は確かに退屈でたまらなかった・・

 

だが、プレイしていくうち、操作しないときに、自由意志で動くシムが時々とてもリアルっぽく感じるのだ・・

すると、じょじょに情が移っていく・・

シムが困難なことにぶつかるたびに、がんばれ!と応援したい気持ちになる

そして、シムが困難を乗り越えて、前向きな願望を出してくるようになると、すごく嬉しいのだ。

 

そうか・・

本当の楽しい遊び方は、シムそれぞれの自由意志を眺めることかもしれない

そう、気づいた。

 

・・ということは・・

本当にこの世がゲームだったら、本来の私もそのようにして楽しんでいる可能性が大なのである。

もっと自己中でいい気がする!

このように、本当にこの世がゲームだとして、自分はただのキャラであり、本来の私がどこかで眺めているとしたら・・

もっと、自己中に生きてもいいような気がする

 

なぜなら、上から眺めているとわかるが、シムの失敗や困難は、ただ単純に「経験」であり、良いも悪いのだ。

 

上から眺める本来の私は、この世ゲームでおこることのすべて楽しんでいる・・

といってもいい

 

だからこそ、もしも、本当にこの世がゲームの世界だとしたら、キャラである私たちは、物事を比較して善悪を決めたりしなくても、もっと適当にもっと気楽に、もっと自己中に生きてもいいのかもしれない!

そう思えてくるのだ。

 

良いことを引き寄せようとして、無理やりポジティブなことを思わなくてもいいのだ

 

つまり・・赤ちゃんのように・・

泣きたいときには泣く!

怒りたいときには怒る!

笑いたいときには笑う!

そんな生き方が一番、ラクに生きるコツなのかもしれない。

ベンジャミン・シュミットの人生